こんばんは。sharkoです
最近の東京はとても蒸し暑いです。
湿度が高いので肌が濡れてクーラーの風が寒く感じるほどです。
風邪をひかないように気を付けなくてはいけないですね。
さて今日は、執着って愛情とはどう違うのかについてお話をしていきます。
執着と言っても様々なものがありますが、人と人との間に起こる良くない執着について私なりの見解をお伝えしていきます。
良くない執着とは、「依存と取引」だと感じています。
どんなところが「取引」なのか、皆さんの生きやすさのヒントになりますように
まず先に依存があって、その先に執着へとつながっているもの。
人への執着とは、「執念」から発生して誰かに「着」くことです。
「愛情」という感情と違うのは、そこに「物質的な取引」があることです。
「愛情」は、お互いを思いやる気持ちがあるのに対し、「執着」は相手の何かに依存して甘えている状態です。
依存して甘えるという事は、
寂しさを埋めてくれて当たり前
優先してくれて当たり前
考えてくれて当たり前
言う事を聞いてくれて当たり前
と思っていることであり、その寂しさなどを埋めてくれている側の立場を何も考えていない状態を言います。
分かりやすい例でいえば、男女が別れる時に「別れよう」とどちらかが持ち出した時点で、言い出した方に「別れる意思がある」と言う現実がありますよね。
通常であれば「別れたくない」と思っている方は、理由を聞いて納得する等の自分の気持ちにけじめをつけて別れることに承諾するものです。
それが「執着」になると、別れたいと言う相手の意志を無視して自分の気持ちだけを押し付ける行動に出ます。
別れを切り出した相手に確固たる決意がある場合であっても、気持ちを尊重できず関係を続けたいと「元に戻る」という事に執着してしまうのです。
相手の気持ちを考えられることなく、〇〇するから別れないで欲しい、そうなってしまったらもうその時点で「取引」になってしまうのです。
相手が〇〇してくれる人だから。
相手が自分に何かをしてくれるから一緒にいるのでしょうか。
相手の持っているものを自分に提供してくれることで満たされていることは依存です。
「相手」が「自分を埋めてくれる」という「取引」です。
ステータス・優しさ・物質的なもの・力量・思いやりなど
寂しさや、自分にないものや、やりたくないものに対する執着であって、相手を愛する気持ちとは異なるのですね。
愛情はコップのお水と同じです
自分のことはまず自分で満たしている状態(自立している状態)がベストな状態で、溢れた分を人に分け与える事が出来るのです。
コップの水を埋めてもらう事を目的とすると、パートナーはやがて疲れ果て、別れの原因になってしまうものです。
自分で自分を満たすことを知らなければ、誰かに延々と満たしてもらう事になり、それは時に「搾取」と捉えられてしまうのですね。
また、依存や執着をしている場合の特徴的な状態は「相手への感謝の気持ちがない」ことで判断できると思います。
本当に愛しているのならば、相手の幸せも自分の幸せとして考えられるものです。
執着していると相手の気持ちを尊重出来ることなく、自分の損得だけに翻弄されてしまうのです。
過去の経験から
依存していた時は、自立心=自分自身への愛情が足りない時であったことに気が付きました。
相手のベクトルが全く自分に向いてない相手と一緒にいるほど虚しい事はなかったです。
執着された側の時は、自分に向けられた愛情ではなく、相手の損得勘定で計られた状況にしがみつかれているだけだと感じました。
損得勘定で付き合われてるのって嫌です。
一見優しさに見える、常に見返りを期待された行動を取られるのは本当に苦痛でした。
お互いに時間を共有していることでお互いが満たされるのと、お互いが離れて行かない為の努力をし合っている状態では、同じ時間の経過でも育まれるものが全く違うのです。
誰かといて幸せになるには、感謝し合える間柄が一番幸せなのだと思います。
たとえ喧嘩をしてもお互いの意見に対して「真ん中」を常に模索することが出来、二人の愛情に偏りが無い「中庸でいる」ことがベストなのだと思います。
幸せな自分と、幸せな気分で一緒にいてもらいたいものだと思います。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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