こんばんは。sharkoです
今日は支配と束縛についてお話していきます。
若干激しい内容になってしまいましたが、現実に則したお話をしてきます。
人に使う言葉は、想いを伝える大切な手段です。
ですが相手にとって不快だと知りながら、あえてきつい言葉を使う時がありますね。
それは相手に強く主張したい時に起こります。
強く誰かをコントロールしたいと言う欲が出ている時など、自分の強い思いを伝えたい時、相手に気付いてもらいたくてあえて衝撃的な言葉を使う事もあります。
「私はこれだけあなたを想っています」と言う証明の代わりになる事もありますね。
ただそれが、相手に響く言葉で伝えられているかと言ったらそうではない場合もあります。
特にネガティブな事に関しては、感情的ではなく冷静に伝えている時の方が伝わりやすい事は確かです。
私自身も数々の失敗を繰り返してきました。
それには自分の心を良く見つめた上で何をどうして伝えたら理解してもらいやすいだろうかと考える事も大切です。
ただ自分の中にある事を感情のままに吐き出すだけでは、相手に押し付けているだけになってしまいます。
誰しも意思や思いがありますから、それを受け取り、どう解釈するかどうかは言葉を受け取った人次第であって、言った側が決める事ではないんです。
嫌な言い方をされても「ふーん」とやり過ごせたり、「はぁ?💢」と思えるまらまだマシです。
でももしその相手が心を痛めた自信のない人であったとしたなら、それが更なる自己否定へ繋がってしまう場合があります。
親から十分に愛されず虐待を受けて育った人や、自由を許されず束縛を受けて育った人に多いと感じています。
親から認められず、存在を否定され続ければ「自分はダメな人間」と言うものが基礎として土台になり、自分で自分を認めるマインドは育たなくなるものです。
常に一緒にいる大きな存在。家庭と言う小さな社会で長い時間を過ごす唯一の大人。
それが親です。
その親に否定され続けると言うのは、いわゆる「洗脳」になります。
幼く知識の少ない子供の内から「自分はダメなんだ」と摺り込まれ続けるのです。
それをする事で親が得られるメリットとは
いつまでも弱くダメな子を傍に置いておく事で、親自身の一時的な自己肯定感が満たされるんです。
大人であるにもかかわらず子どもと自分を比較し続け、自分の存在価値を確認しているんです。
そして何より、親自身が孤独になる事から逃れられるのです。
一人の人間ではなく、「子供」と言うとても都合の良い存在を自分の思い通りになる所有物として扱っている人が存在するんです。
ディズニー映画の「塔の上のラプンツェル」をご存知でしょうか。
この映画に出てくるニセの母親が正にそうですね。
ラプンツェルを一見可愛がっているように見えて、彼女を塔の上に閉じ込め、自分の若返りの為に所有しているんです。
子どもを虐待している親と言うのはまさにこの状態。
子どもは親の価値を上げる為だけの存在で、心がある人間としては扱われていません。
制限を課し小さい世界に子どもを閉じ込め、外へ出ない様に拘束するのです。
虐待を繰り返す親の心境として、子どもは
「意思のない動く人形」であることが望ましいからです。
そして、「あなたが言う事を聞かないから私がこうなった」と悲観的に情を売り、被害者に成り下がり、罪の意識を子どもに植え付けます。
子どもが親に対して抱く罪悪感には、親の被害者意識が多大に影響しています。
気分が悪いのも、運が悪いのも、上手く行かないのも全て「子どものせい」
そして子どもの活躍は、全部「自分のお陰」なんです。
そういう親は子どもの幸せを喜べず、決して誉める事はありません。
親は普通で言えば先にあの世に行きますよね。
私自身が、それを知っていても尚子どもに自立をさせない自分の母親に心の深いところではずっと怒りが溜まっていました。
私の母親は、自分が去った後の子どもの事については「知ったことか」なんです。
それでいて、自立すること、母親から離れようとすることを阻止します。
散々憎まれ口を叩き、人格否定を続け、気分で人を突き放しておいて、気分で子どもからの愛情を確かめようとする。
何をしても嫌われないはずと、関係性に甘えているんです。
「自分だけが満たされていればそれで良い」と、言葉にしなくても全ての言葉・態度から伝わってきます。
それでいて、「自分を母親として認めて欲しい、孤独にはなりたくない」
笑っていても泣いていても叱られる。子どもを束縛し、感情の自由すら与えて来なかった親が言うセリフではありません。
情に負け、罪悪感に負け、甘えに負け、常識に負け、自分の悔しさ悲しさ惨めさをずっと封じ込めて来ました。
良いところを探して、どこかに希望すら感じて、そんな母親をずっと許して来ました。
実はこのお話。
パートナーシップでも同じことが起きるのです。
人が感じる愛情と言うのは、親に対する愛と類似してしまうんです。
モラハラやDVを受けたり、雑に扱われる女性がなかなかその男性から離れられないのは、親と重ねてしまっているからなんです。
今は男女逆DVなども聞かれる話ですね。
それを終わらせるのに大切な事。
苦しい関係から逃れられない鎖となっているのが「情」です。
情を断ち切らない限り、その関係性に変化が訪れる事はありません。
「情」とは、「なさけ」とも読みます。
自分に危害を加える人が、自分より強い人が「可哀そう」でしょうか。
そんな状態に苦しんでいる自分は「可哀そう」ではないのでしょうか。
言いたいことも言えない、やりたいことも出来ない、思いを表現する事も、何もかもに制限がかかる。
そんな状態は苦しいのではないのでしょうか。
そもそも、親子と言えども、パートナーと言えども自分とは別の人です。
お互いに認め合い、「相手と自分は違うんだ」と言う認識があれば苦しい束縛は生まれません。
<人を支配し、束縛してしまう事に苦しむ方へ>
何か言葉を伝える時も、行動を起こす時も、ただ感情で吐き出すのではなく、「別の人に話す」と言う意識を持ってみて下さい。
「他者」と「自分」は分けて考える事はとても大切です。
家族でも、子どもでも、パートナーでも、自分とは別の人なんです。
自分が出来ることは誰もが出来ることではなく、誰かが出来ることを全て自分が出来る訳でもありません。
そして、
自分の言う事を聞かない=自分を否定されている
これは被害者意識です。
こう思ってしまう人は、自分の弱さを認められない人だと感じます。
弱さも含めて自分です。
ダメなところがない人はいません。
そして弱さと共に、出来ていることも「自分は出来る」と認めて良いのです。
そのどんな自分も認められる強さが、生きて行くエネルギーになるのです。
誰かに不健全な状態でエネルギーを貰わなくても済むのです。
出来ないことは出来ない、だから教えてもらう、人に頼む、そして感謝する。
これは恥ずかしい事ではなく、知らなかったことを知った、人との関係を健全に繋ぐプラスのエネルギーです。
知らない事・出来ない事を馬鹿にする行為は人の目には滑稽に映るものです。
人の世界は広く、そして狭く、知っていることの方が少ないのです。
出来ていることの方が少ないのです。
それなのに力で制圧し、誰かの自由を奪い・心を死なせ、その責任を担う力が自分にあるのか、人を見下げる事に意味があるのか。
是非ご自分に問いかけて下さい。
例え、家族関係であってもです。
少なくとも、人の命や存在の価値に上下をつけている時点で、気が付けていない何かがある事を知るべきだと私は思います。
大切にしたい人を大切に出来ない理由は、自分の中にあります。
その「何か」や「理由」は、自らをもって知ってください。
自分を愛する事で、その目に映ると思います。
目に映る人は自分であり、自分もまた人であるのです。
人はみな、未熟なのです。
未熟であって、完全なのです。
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